100回目の君へ【第2部】何度目の恋(第十章 君が存在する証明)

小説
※アフィリエイト広告を利用しております

第十章 君が存在する証明

 世界が、白くなった。

 光というより、白そのものに飲み込まれたようだった。

 上も、下もない。

 前も、後ろもない。

 自分の手さえ見えない。

 それなのに。

 凛音は、悟の手だけを感じていた。

 強く握られた指。

 少し冷たい手のひら。

 何度も失って、何度も探して、何度も握り直してきた手。

「……悟?」

「いるよ」

 すぐに返事があった。

 その声を聞いた瞬間、凛音は大きく息を吐いた。

「よかった……」

「うん」

「本当にいる?」

「いる」

「消えない?」

「……たぶん」

「そこは絶対って言ってよ!」

「ごめん。こういうとき、嘘つくの苦手なんだ」

 こんな状況なのに。

 凛音は少しだけ笑ってしまった。

「ほんと、そういうところだよね」

「どういうところ?」

「肝心なところで頼りないところ」

「ひどくない?」

「ひどいよ」

 握った手に、少しだけ力がこもる。

 いつもの二人だった。

 世界が消えかけていても。

 自分たちの存在さえ疑われていても。

 こうして言い合えることだけは、変わらなかった。

 けれど。

 そのときだった。

 頭上から、機械のような声が響いた。

『回答を確認しました』

 凛音は笑うのをやめた。

『天星凛音。久遠悟』

『両名の回答を記録します』

『次の人生を希望しない』

『現行世界の継続を希望する』

『ただし、現行世界の存続条件を満たしていません』

「……は?」

 凛音は思わず声を上げた。

「ちょっと待って。勝手に話を進めないで!」

 返事はない。

『確認を開始します』

『対象の存在証明を実行します』

 白い空間に、二つの光が現れた。

 一つは凛音の胸の前。

 もう一つは悟の胸の前。

 光は、心臓のように規則正しく明滅していた。

「何、これ……」

 凛音が尋ねる。

 悟は自分の胸元を見つめていた。

「分からない。でも」

「でも?」

「俺たちを調べてるんだと思う」

「何を?」

「本当に存在しているかどうか」

 凛音は目を細めた。

「存在してるに決まってるでしょ」

「うん」

「私たち、今ここにいるじゃん」

「うん」

「手だってつないでるし、声だって聞こえるし」

「うん」

「なのに、何を証明しろっていうのよ!」

 白い空間が、わずかに揺れた。

『物理的接触を確認』

『音声による相互認識を確認』

『記憶による個体識別を確認』

『存在証明……不完全』

「なんでよ!」

 凛音の声が響き渡った。

 すると、機械音声は淡々と答えた。

『両名の記憶には、現行世界に存在しない出来事が含まれています』

『両名の人生には、記録上存在しない死が含まれています』

『両名の関係性には、現行世界で成立する以前の記憶が含まれています』

『したがって、両名が現在の世界に属する存在であると断定できません』

 凛音は言葉を失った。

 悟も、何も言わなかった。

 記録上存在しない死。

 現行世界で成立する以前の記憶。

 それは、彼らが何度も繰り返してきた人生のことだろうか。

 それとも。

 もっと別の何かを指しているのだろうか。

 凛音は、悟の手を握り直した。

「ねえ、悟」

「うん」

「私たちって、本当に何者なんだろうね」

 悟は少し考えた。

「分からない」

「……うん」

「でも、一つだけ分かる」

「何?」

 悟は、凛音の手を見つめた。

「俺は、今、君の手を握ってる」

 凛音は顔を上げた。

「……それだけ?」

「それだけ」

「それでいいの?」

「俺には、それが一番確かなことだから」

 凛音は何も言えなかった。

 胸の奥が、じんわりと熱くなった。

 この世界が作られたものだとしても。

 自分たちの記憶が誰かに与えられたものだとしても。

 今、悟の手を握っている。

 その事実だけは、誰にも否定させたくなかった。

 白い空間に、巨大な文字が浮かび上がった。

『第一検証を開始します』

 凛音の目の前に、映像が現れた。

 見覚えのある教室。

 桜の花びら。

 窓際に立つ自分。

 そして、教室の入り口にいる悟。

 あの日だった。

 転校生の悟が、初めて教室に入ってきた日。

 映像を見つめる凛音。

 悟が笑っている。

 凛音を見つけて。

 まるで、ずっと探していた人を見つけたかのように。

『やっと会えた』

 映像の中の悟が、そう言った。

 凛音の喉が詰まった。

 何度も思い出した場面だった。

 けれど、今、改めて見ると不思議だった。

 なぜ、あのとき悟はあんなことを言ったのだろう。

 初めて会ったはずなのに。

 初めて会ったとは思えなかった。

「……これ、私たちの記憶?」

 凛音が尋ねた。

「たぶん」

「でも、少し違う」

「え?」

 凛音は映像を指さした。

「ここ」

 映像の中の悟が、教室に入る直前。

 一瞬だけ、画面が乱れた。

 そして。

 映像の端に、白い服を着た人物が映っていた。

 顔は見えない。

 ただ、片手に何かを持っていた。

 懐中時計だった。

「……あれ」

 凛音が息をのむ。

「時計?」

 人物は、教室の外から二人を見つめていた。

 まるで、二人が出会う瞬間を待っていたかのように。

 次の瞬間、映像が切り替わった。

 今度は、別の人生。

 雨の降る街。

 血のついた手。

 燃える建物。

 雪の上に倒れる凛音。

 悟が、彼女の名前を叫んでいた。

 さらに映像が変わる。

 見知らぬ時代。

 知らない服。

 知らない街並み。

 それでも、そこには必ず二人がいた。

 出会って。

 惹かれ合って。

 そして、別れていく。

 死に方は違った。

 時代も違った。

 年齢も、境遇も、立場も違った。

 それでも、二人は出会っていた。

 何度も。

 何度も。

 何度も。

「……もういい」

 凛音が呟いた。

 映像は止まらなかった。

「もう、やめて!」

 白い空間が震えた。

『検証を継続します』

「やめてって言ってるでしょ!」

 凛音は叫んだ。

「私たちが何度出会ったかなんて、もう分かってる!」

 映像が、一瞬だけ停止した。

 凛音は荒い息を吐いた。

「何度も死んだ。何度も出会った。何度も悟を失った」

 声が震える。

「それで、何が分かるの?」

 誰も答えない。

「私たちが本当に存在してるかどうかなんて、そんな映像を見せられたって分からない!」

 凛音は、隣の悟を見た。

「ねえ、悟」

「うん」

「私たち、こんなことを証明するために出会ったの?」

 悟は答えなかった。

 その代わり、凛音の手を強く握った。

 そして、初めて映像に向かって言った。

「もう十分だろ」

 静かな声だった。

 けれど、そこには確かな怒りがあった。

「俺たちが何度生まれ変わったのか、何度死んだのか。そんなものを数えたところで、俺たちが何を思っていたかまでは分からない」

 悟は一歩、前に出た。

「俺は、凛音に会いたかった」

 白い空間に声が響く。

「理由なんて、今でも分からない。生まれる前から知っていたのかもしれないし、誰かにそう思うようにされたのかもしれない」

 悟は少しだけ笑った。

「でも、会いたかったんだ」

 その瞬間。

 映像が消えた。

『回答を受信しました』

『感情による選択を確認』

『第二検証へ移行します』

「……まだあるの?」

 凛音が呆れたように呟いた。

 悟は肩をすくめた。

「どうやら、面倒な相手みたいだね」

「本当にね」

 二人は顔を見合わせた。

 こんな場所でも。

 少しだけ、笑えた。

『第二検証を開始します』

 今度、凛音の前に現れたのは、二つの扉だった。

 左側の扉は、白い。

 右側の扉は、黒い。

 どちらにも、文字が刻まれていた。

 白い扉。

『久遠悟のいない世界』

 黒い扉。

『天星凛音のいない世界』

 凛音は、息を止めた。

「……何これ」

『選択してください』

 機械音声が告げる。

『どちらか一方の世界を存続させます』

『選択されなかった世界は、消去されます』

 凛音は悟を振り返った。

 悟の顔から、笑みが消えていた。

「どっちかを選べってこと?」

『肯定』

「ふざけないでよ!」

 凛音は扉に向かって叫んだ。

「そんなの、選べるわけないじゃん!」

『選択してください』

「嫌だ!」

『選択してください』

「嫌だって言ってるでしょ!」

 同じ言葉が、何度も繰り返される。

 まるで、こちらの意思など最初から存在しないかのように。

 凛音は歯を食いしばった。

 悟がいない世界。

 自分がいない世界。

 どちらも、想像するだけで胸が痛くなる。

 でも。

 それ以上に、腹が立った。

「ねえ、悟」

「うん」

「これ、絶対に選ばなきゃいけないのかな」

「……分からない」

「またそれ?」

「ごめん」

 悟は二つの扉を見つめた。

「でも、選ばないっていう選択肢がないか、試してみよう」

「どうやって?」

「さあ」

「さあって……」

「とりあえず、押してみる?」

「何を?」

「両方」

 凛音は悟を見つめた。

「……本気?」

「半分くらい」

「残り半分は?」

「やけくそ」

「最低!」

 そう言いながらも、凛音は少し笑った。

 そして、二人は同時に歩き出した。

 白い扉と、黒い扉。

 その両方に手を伸ばす。

 凛音は白い扉に。

 悟は黒い扉に。

 指先が触れた瞬間。

 白い空間に、警告音が響いた。

『不正な操作を検知』

『選択が重複しています』

『選択が重複しています』

『選択が重複しています』

 凛音は目を見開いた。

「……重複?」

 悟も、扉を見つめていた。

 白い扉の表面に、文字が浮かび上がる。

『久遠悟のいない世界』

 その文字が、ゆっくりと消えた。

 代わりに、新しい文字が現れる。

『久遠悟と天星凛音が存在する世界』

 黒い扉も同じだった。

『久遠悟と天星凛音が存在する世界』

 二つの扉が、同じ文字を表示していた。

「……どういうこと?」

 凛音が呟く。

 悟は、ゆっくりと答えた。

「俺たち、別々の世界を選ばなかったんだ」

「でも、私は悟がいない世界を選ぶ扉に触ったよ?」

「うん」

「悟も、私がいない世界を選ぶ扉に触った」

「うん」

「なのに、どうして?」

 悟は、二つの扉を交互に見た。

「たぶん」

 少し考えてから。

「俺たちは、お互いがいない世界を選んだんじゃない」

「……」

「お互いが存在することを、確かめたんだと思う」

 凛音は何も言わなかった。

 自分がいない世界。

 悟がいない世界。

 どちらかを選べと言われたとき。

 確かに、自分は選べなかった。

 ただ、悟がいることを確かめたかった。

 自分も、ここにいると伝えたかった。

 それだけだった。

『選択結果を確認できません』

『検証を中断します』

 機械音声が告げた。

『両名の選択が、想定された結果と一致しません』

 凛音は顔を上げた。

「……ねえ」

 初めて、機械音声に向かって静かに尋ねた。

「あなたは、何を知りたいの?」

 返事はなかった。

「私たちが愛し合ってるかどうか?」

 白い空間が揺れる。

「それとも、私たちが本当に存在してるかどうか?」

 沈黙。

 凛音は悟の手を握った。

「もし、それを知りたいなら」

 彼女は、まっすぐ前を見た。

「私たちに選ばせるんじゃなくて、あなたが答えを見ればいい」

 その瞬間。

 世界が、再び揺れた。

 白い壁に、ひびが入った。

 細い線が、ゆっくりと広がっていく。

 その向こう側に、何かが見えた。

 暗い部屋。

 無数のモニター。

 机の上に並ぶ資料。

 そして、ガラス越しにこちらを見ている人影。

 凛音は息をのんだ。

「……あれ」

 悟も、その光景を見つめていた。

「部屋?」

 白い壁の向こうには、確かに部屋があった。

 現実の部屋のようだった。

 床も、机も、椅子もある。

 モニターには、数字とグラフが並んでいる。

 その一つに、見覚えのある文字が映っていた。

『観測対象R-100』

 その下には、二人の名前。

『天星凛音』

『久遠悟』

 さらに、別の文字が表示されていた。

『観測回数:100』

『記憶継承率:異常値』

『世界再構成回数:99』

 凛音の顔から、血の気が引いた。

「……世界再構成?」

 悟は、ガラスの向こうを見つめていた。

 人影が動いた。

 白衣を着た人物。

 その人は、モニターに向かって何かを話しているようだった。

 声は聞こえない。

 けれど。

 その横顔を見た瞬間、凛音の心臓が跳ねた。

「……嘘」

 見覚えがあった。

 夢の中で見た。

 白衣を着た、自分。

 自分と同じ顔をした、もう一人の凛音。

 その人物が、こちらを向いた。

 ガラス越しに、目が合った。

 そして。

 彼女は、口を動かした。

 声は聞こえなかった。

 それでも、凛音には分かった。

 彼女は、こう言ったのだ。

 ――ごめんね。

 凛音は一歩、後ずさった。

「……私?」

 隣の悟が、彼女を見た。

「凛音?」

「今の人……」

 凛音は震える指で、ガラスの向こうを指さした。

「私と同じ顔をしてた」

 悟は、もう一度そちらを見た。

 けれど。

 白衣の人物は、すでに画面の外へ消えていた。

 代わりに、モニターの一つが点滅していた。

『観測対象に異常な自律行動を確認』

『観測者との接触を検知』

『隔離プロトコルを開始します』

 警告音が鳴り響く。

 ガラスの向こう側で、人影が慌ただしく動き始めた。

 凛音は悟を見た。

「ねえ、悟」

「うん」

「私たちって……」

 言葉が続かなかった。

 自分たちは、何度も生まれ変わったのだと思っていた。

 何度も出会い、何度も愛し合い、何度も死んできたのだと。

 けれど。

 もし、そのすべてが、誰かの作った世界だったとしたら。

 自分たちの人生は。

 自分たちの記憶は。

 自分たちの愛は。

 いったい、何だったのだろう。

 悟は、しばらく黙っていた。

 やがて。

「……分からない」

 静かに言った。

「でも、俺は」

 悟は凛音の手を握り直した。

「君を好きになったことまで、誰かに決められたことだとは思いたくない」

 凛音は悟を見つめた。

「……うん」

「たとえ、出会いが作られたものでも」

 悟は続けた。

「そのあと、君と何を話したか。何を見て笑ったか。何を怖がったか」

 少しだけ、笑った。

「プリンを一緒に食べたことまで、全部、嘘だったなんて思いたくない」

 凛音の目から、涙がこぼれた。

 あの日。

 二人でプリンを食べた。

 普通の家で。

 普通のテーブルについて。

 世界のことも、運命のことも忘れて。

 ただ、おいしいねと笑った。

 もし、その時間が誰かに用意されたものだったとしても。

 あのとき、自分が幸せだったことまで、嘘になるのだろうか。

 凛音は首を横に振った。

「……私も」

 悟の手を握る。

「私も、そう思いたい」

 その瞬間。

 ガラスの向こう側のモニターが、すべて暗転した。

 警告音が止まる。

 そして。

 白い空間に、一つの文章が浮かび上がった。

『観測者からのメッセージを受信しました』

 凛音は息を止めた。

 文字が、ゆっくりと変わる。

『天星凛音へ』

 次に。

『久遠悟へ』

 そして。

『これ以上、真実を知ろうとしないでください』

 凛音は眉を寄せた。

「……なんで?」

 文字は消えなかった。

 その下に、新しい文章が現れた。

『あなたたちが真実を知れば、現在の世界は維持できません』

 悟が呟いた。

「……脅してるのか?」

 さらに文字が浮かび上がる。

『これは警告です』

『あなたたちの存在は、現在の世界の成立条件に含まれていません』

『あなたたちがここに存在すること自体が、世界の矛盾です』

 凛音は、ゆっくりと顔を上げた。

 世界の矛盾。

 自分たちが存在すること自体が。

 それなら。

 なぜ、自分たちは生まれたのだろう。

 なぜ、出会ったのだろう。

 なぜ、何度も何度も、互いを見つけてしまうのだろう。

 凛音は、白い空間に向かって言った。

「……だったら」

 声は震えていた。

 それでも、言葉を止めなかった。

「どうして私たちを作ったの?」

 沈黙。

「どうして、何度も出会わせたの?」

 沈黙。

「どうして、何度も死なせたの?」

 白い空間が、かすかに揺れた。

「私たちに何をさせたかったの?」

 返事はなかった。

 ただ、一番最後に、短い文字だけが浮かんだ。

『それは、私にも分かりません』

 凛音は目を見開いた。

「……え?」

 私にも分からない。

 その言葉は、あまりにも不自然だった。

 誰かが世界を作った。

 誰かが自分たちを観測している。

 それなのに。

 その誰かにも、理由が分からない。

 そんなことがあるのだろうか。

 悟は、静かに言った。

「……観測者も、全部を知ってるわけじゃないんだ」

 凛音は彼を見た。

「どういうこと?」

「俺たちを作った人がいるとしても」

 悟は、ガラスの向こうを見つめた。

「その人も、何かを調べてる途中なのかもしれない」

 凛音は、もう一度モニターを見た。

 そこには、二人の名前が並んでいた。

 天星凛音。

 久遠悟。

 その下に、見慣れない一文が表示されていた。

『観測対象の自我形成により、実験目的の再定義が必要』

 凛音は、その意味を理解できなかった。

 ただ。

 自分たちは、誰かの思いどおりには動いていない。

 それだけは、少しだけ分かった気がした。

 突然、白い空間に亀裂が走った。

 今度は、壁だけではない。

 足元にも、天井にも。

 世界そのものに、ひびが入っていく。

『警告』

『世界の維持が困難になりました』

『観測を終了します』

 凛音は悟の手を握った。

「……終わるの?」

「分からない」

「ねえ、また会える?」

 悟は、凛音を見つめた。

 何度も繰り返した問いだった。

 何度も答えた言葉だった。

 それでも、今度だけは、簡単に答えられなかった。

 もし、この世界が本当に消えるのなら。

 次の世界がある保証はない。

 生まれ変わる保証もない。

 また出会える保証もない。

 それでも。

 悟は、凛音の手を離さなかった。

「……会いたい」

 凛音の目から、涙が落ちた。

「うん」

「次の人生がなくても」

「うん」

「世界がなくなっても」

「うん」

「俺は、君に会いたい」

 凛音は泣きながら笑った。

「……私も」

 その瞬間。

 足元の白い床が崩れた。

 二人の体が、ゆっくりと落ちていく。

 けれど。

 手は離れなかった。

 暗闇の中に落ちながら、凛音は悟の名前を呼んだ。

「悟!」

「うん!」

「絶対、離さないで!」

「離さない!」

「嘘ついたら許さないから!」

「分かった!」

「あと、次に会ったらプリンおごって!」

「……今それ言う!?」

 悟の声が、少しだけ裏返った。

 凛音は笑った。

 泣きながら。

 怖くてたまらないのに。

 笑ってしまった。

 そのときだった。

 真っ暗な空間の奥に、小さな光が見えた。

 その光の中に、文字が浮かんでいた。

『観測対象R-100』

『現行世界の終了まで、残り60秒』

 その下に。

 見覚えのある時刻が表示されていた。

 11時59分。

 そして、その隣に。

『次回世界への移行を開始しますか?』

 はい。

 いいえ。

 二つの選択肢があった。

 凛音は、悟を見た。

 悟も、彼女を見た。

 今度こそ。

 自分たちで選ばなければならない。

 何度も繰り返してきた人生を。

 誰かに決められてきた運命を。

 そして。

 これからの未来を。

 凛音は、ゆっくりと手を伸ばした。

 けれど、選択肢に触れる直前。

 画面に、新しい文字が現れた。

『注意』

『次回世界への移行を拒否した場合、両名の記憶は完全に消去されます』

『二人は互いを認識できなくなります』

『再会の可能性は保証されません』

 凛音の指が止まった。

 悟は、何も言わなかった。

 ただ、彼女の手を握っていた。

 凛音は思った。

 忘れるのは、怖い。

 悟を忘れること。

 自分が悟を好きだったことさえ、分からなくなること。

 そんな未来は、想像したくなかった。

 でも。

 また同じことを繰り返すのも、嫌だった。

 何度も出会って。

 何度も愛して。

 何度も失って。

 そして、何も知らないまま、また最初からやり直す。

 それが本当に、二人の望む未来なのだろうか。

「……悟」

「うん」

「私、怖い」

「うん」

「忘れたくない」

「うん」

「でも、もう繰り返したくない」

 悟は、静かに頷いた。

「……俺も」

 凛音は彼の目を見つめた。

「どうしたらいいんだろう」

 悟は少しだけ考えた。

 そして。

「俺たちが選べばいい」

「……何を?」

「誰かが決めた未来じゃなくて」

 悟は、凛音の手を握り直した。

「俺たちが、どうしたいか」

 凛音は、画面を見つめた。

 はい。

 いいえ。

 どちらを選んでも、何かを失う。

 それでも。

 今までとは違う。

 今度は、自分たちで選べる。

 凛音は、ゆっくりと指を伸ばした。

 そして。

 画面に触れようとした、その瞬間。

 光が消えた。

「……え?」

 暗闇の中に、別の声が響いた。

 今まで聞いていた機械音声とは違う。

 人間の声だった。

 若い女性の声。

 聞き覚えのある声。

『その選択は、まだ早い』

 凛音は息をのんだ。

「……誰?」

 返事はなかった。

 代わりに、暗闇の向こうで、小さな光が灯った。

 そこに、一人の少女が立っていた。

 白い服。

 長い髪。

 そして。

 凛音と同じ顔。

 少女は、泣きそうな顔で笑った。

『ごめんね、凛音』

 凛音は、その顔を見つめた。

 夢の中で見た、白衣の自分。

 あのとき、ガラスの向こう側にいた人物。

 少女は、静かに続けた。

『本当は、あなたたちに選ばせるつもりなんてなかった』

 悟が声を上げた。

「お前は誰だ!」

 少女は悟を見た。

 そして、少しだけ悲しそうに笑った。

『久遠悟』

『あなたにも、謝らなければならない』

「何を……?」

 少女は答えた。

『あなたが、100回も彼女を失ったこと』

『そして』

 一度、目を伏せた。

『100回目のあとも、まだ終わらせてあげられなかったこと』

 凛音の心臓が、大きく跳ねた。

「……100回目のあと?」

 少女は、二人を見つめた。

『あなたたちは、まだ知らない』

『100回目の世界が、なぜ終わらなかったのか』

『どうして、101回目が始まろうとしているのか』

 少女の姿が、少しずつ薄くなっていく。

『そして、私が……』

 声が途切れた。

「待って!」

 凛音は叫んだ。

「あなたは誰なの!?」

 少女は、最後に一度だけ笑った。

『私は、あなたが忘れた……』

 その瞬間。

 すべての光が消えた。

 凛音の手の中から、悟の手が離れた。

「悟!?」

 返事はない。

「悟! どこ!?」

 暗闇の中で、凛音は必死に手を伸ばした。

 けれど、何も触れない。

 何も聞こえない。

 ただ、遠くから。

 あの懐中時計の音だけが聞こえた。

 カチ。

 11時59分。

 カチ。

 そして。

 誰かの声がした。

『第101回観測を開始します』

 凛音は、目を見開いた。

 次の瞬間。

 世界が、再び白くなった。

 午前6時12分。

 凛音は、ベッドの上で目を覚ました。

「……え?」

 見慣れた天井。

 見慣れたカーテン。

 窓から差し込む、朝の光。

 いつもの自分の部屋だった。

 凛音は慌てて起き上がった。

 夢だったのだろうか。

 あの白い空間も。

 観測者も。

 自分と同じ顔をした少女も。

 全部、夢だったのだろうか。

 凛音は自分の手を見つめた。

 手のひらに、何かが残っている。

 小さな傷だった。

 右手の薬指の付け根。

 昨夜までは、なかったはずの傷。

 凛音は指でそっと触れた。

 そして。

 思い出した。

 暗闇の中で、悟の手を握っていたことを。

 離さないでと叫んだことを。

 次に会ったら、プリンをおごってと言ったことを。

 凛音は、思わず笑った。

「……本当に、プリンのこと言ったんだ」

 そのとき。

 枕元のスマホが震えた。

 悟からだった。

『おはよう』

 凛音は、すぐに返信した。

『おはよう』

 既読がつく。

 そして。

『夢、見た?』

 凛音の指が止まった。

 しばらく考えてから、返信する。

『白い世界の夢?』

 すぐに返事が来た。

『うん』

 凛音は息をのんだ。

 やっぱり、夢ではなかった。

 あの場所で、二人は確かに一緒にいた。

 凛音は、もう一度メッセージを送った。

『プリン、おごってね』

 少し間があった。

 そして。

『覚えてたんだ』

 その一文を見た瞬間、凛音の胸が熱くなった。

 悟も覚えている。

 あの世界のことを。

 あの選択のことを。

 そして、二人で交わした約束を。

 凛音は、笑いながら返信した。

『忘れるわけないでしょ』

 送信した直後。

 スマホの画面が、一瞬だけ暗くなった。

 そして、見覚えのない文字が浮かび上がった。

『記憶継承を確認』

『観測対象R-100:正常』

『観測対象S-100:正常』

 凛音の笑顔が消えた。

 R-100。

 S-100。

 その下に、さらに文字が現れた。

『第101回観測』

『第一段階:完了』

 凛音は、スマホを握りしめた。

 そして、最後の一文が表示された。

『次の検証対象は、あなたたちの出会いです』

 画面が元に戻る。

 いつものメッセージ画面。

 悟からの返信。

『放課後、会える?』

 凛音は、しばらく画面を見つめていた。

 それから、ゆっくりと文字を打った。

『うん。会いたい』

 送信。

 窓の外では、朝の光が街を照らしていた。

 世界は、何事もなかったかのように動いている。

 けれど。

 凛音は知っていた。

 100回目は、まだ終わっていない。

 そして、101回目は。

 もう、始まっている。

タイトルとURLをコピーしました