第三章 九十九回
「99回……?」
凛音は、もう一度その数字を口にした。
聞き間違いではない。
悟は確かにそう言った。
99回。
一回や二回ではない。
99回。
人間が一生を生きるには、一度で十分なのに。
それを99回。
しかも――。
「全部、私を殺したの?」
悟は答えない。
「どうやって?」
「……毎回違う」
「事故?」
「ある」
「病気?」
「ある」
「戦争?」
「ある」
「じゃあ……」
凛音は唇を噛んだ。
「私が自殺したことも?」
悟の顔が曇った。
「ある」
「……悟が殺したんじゃないじゃん」
「そうだね」
「じゃあ、全部って言うのはおかしくない?」
「でも」
悟は静かに答えた。
「俺が君を殺さなかった世界では、君は別の方法で死んだ」
「……」
「そして、君が死ななかった世界では」
悟は一度言葉を止めた。
「世界の方が先に死んだ」
風が強く吹いた。
凛音の髪が顔にかかる。
「意味が分からない」
「うん」
「説明して」
「できない」
「なんで?」
「まだ早いから」
「またそれ?」
凛音は苛立った。
「早い、分からない、そのうち分かる。そんなのばっかりじゃん!」
悟は何も言わなかった。
その沈黙が、凛音には余計に腹立たしかった。
「私は何も知らないんだよ」
「……うん」
「なのに悟だけ知ってる」
「……うん」
「私の夢も知ってる」
「うん」
「時計も知ってる」
「うん」
「私を99回殺したことも知ってる」
「……うん」
「だったら教えてよ!」
凛音の声が屋上に響いた。
悟はしばらく黙っていた。
やがて、ポケットから何かを取り出した。
小さな古い写真だった。
「これ」
凛音に差し出す。
凛音は受け取った。
写真には、二人の子どもが写っていた。
知らない場所。
知らない服。
知らない時代。
けれど。
そこにいる女の子を見た瞬間、凛音の心臓が跳ねた。
「……私?」
「たぶん」
「たぶんって何よ」
「この写真を持ってたのは君だった」
「いつ?」
「3回目」
凛音は写真を裏返した。
何も書いていない。
「この男の子は?」
「俺」
「……悟?」
「そう」
二人とも幼い。
十歳にも満たない。
それなのに。
写真の中の二人は、妙に悲しそうだった。
凛音は写真を見つめる。
すると。
頭の奥が痛んだ。
「……っ」
視界が歪む。
「凛音?」
写真の中の景色が動いた。
錯覚だった。
古い石畳。
雨。
赤い傘。
女の子が泣いている。
少年が何かを言っている。
――大丈夫。
――嘘。
――今度こそ助ける。
――約束して。
そして。
黒い影。
銃声。
写真が手から落ちた。
「凛音!」
悟が駆け寄る。
凛音はその場にしゃがみ込んだ。
「……今の」
「思い出した?」
「分からない」
頭を抱える。
「私……この子だった?」
「そうかもしれない」
「またそれ」
凛音は悟を見上げた。
「悟は全部覚えてるんじゃないの?」
「全部じゃない」
「嘘」
「本当だよ」
「じゃあ、何を覚えてるの?」
悟は答えなかった。
「俺が覚えているのは、君が死んだ瞬間だけ」
「……」
「それだけは、全部覚えてる」
凛音は何も言えなかった。
悟の目を見ていると、冗談ではないことだけは分かった。
この人は。
本当に99回分の死を覚えている。
そして。
その一つ一つを抱えて生きている。
そう思うと、怖いというより――。
悲しかった。
「……ごめん」
凛音が言った。
悟が目を見開く。
「なんで謝るの?」
「分からない」
「じゃあ謝らなくていい」
「でも」
「俺が勝手に覚えてるだけだから」
悟は笑った。
「君は何も悪くない」
その笑顔が、凛音には痛かった。
屋上を出たあと。
二人は階段を下りた。
夕方の校舎は静かだった。
部活をしている生徒の声が遠くから聞こえる。
凛音は悟の少し後ろを歩いていた。
「ねえ」
「うん?」
「99回の中で、一番最初に私を殺したのはいつ?」
悟は足を止めた。
「覚えてない」
「嘘」
「本当に覚えてない」
「じゃあ、一番最後は?」
悟は振り返らない。
「今の一つ前」
「どうやって?」
長い沈黙。
「君に頼まれた」
「……私が?」
「うん」
「何て?」
悟は階段を下りながら言った。
「『次は絶対に、私を迷わせないで』」
凛音は足を止めた。
「……そんなこと言ったの?」
「言った」
「私が?」
「うん」
「なんで?」
悟は振り返った。
「世界が終わるから」
またその言葉。
世界が終わる。
凛音には、それがどうしても現実の話とは思えなかった。
「ねえ、悟」
「うん」
「世界って、どうやって終わるの?」
悟は少し考えてから言った。
「消える」
「地球が爆発するとか?」
「違う」
「人類が滅びる?」
「違う」
「じゃあ何?」
悟は答えなかった。
代わりに。
「誰も、『昨日』を覚えていなくなる」
そう言った。
凛音は意味が分からなかった。
「……それが世界の終わり?」
「うん」
「そんなの、普通じゃない?」
「どうして?」
「昨日のことなんて、全部覚えてる人いないじゃん」
「そういう意味じゃない」
悟は静かに言った。
「昨日という日そのものが、最初から存在しなかったことになる」
凛音は黙った。
「人も」
「街も」
「学校も」
「思い出も」
「全部」
悟は一段下へ降りた。
「そして、また最初から始まる」
凛音の背中に寒気が走った。
「……それが」
「ループ」
悟はその言葉を初めて使った。
「時間が戻る」
凛音は階段の手すりを握った。
「じゃあ……」
「うん」
「私たちは今まで、何度も同じ時間を生きてきたの?」
「それも、正確には分からない」
「どういうこと?」
「時間が戻ったのか」
悟は振り返る。
「世界が作り直されたのか」
「……」
「俺には分からない」
凛音はその言葉を聞いて、少しだけ安心した。
悟にも分からないことがある。
それだけが、唯一の救いだった。
第四章 普通の放課後
次の日。
凛音は普通に学校へ行った。
普通に授業を受けた。
普通に昼ご飯を食べた。
そして。
普通に悟と話した。
昨日までなら、それだけで特別だった。
けれど今は。
何かがおかしい。
悟が笑う。
凛音も笑う。
くだらない話をする。
宿題が面倒だとか。
先生の字が読みにくいとか。
購買のパンが売り切れていたとか。
そんな話ばかり。
それなのに。
その何気ない時間が、凛音にはとても大切に感じられた。
放課後。
二人は学校近くの公園に寄った。
ベンチに座る。
悟がコンビニで買ったプリンを二つ取り出した。
「また?」
「約束したから」
「律儀だね」
「99回分の約束だから」
凛音は笑った。
「それ、冗談?」
「半分」
「じゃあ残り半分は?」
「秘密」
凛音はプリンの蓋を開けた。
一口食べる。
甘い。
普通のプリン。
でも。
なぜか懐かしい。
「……これ」
「うん?」
「前にも食べた気がする」
悟の手が止まった。
「どこで?」
「分からない」
凛音はプリンを見つめる。
「たぶん夢」
「どんな夢?」
「……小さい頃の夢」
「俺もいた?」
凛音は悟を見る。
「いたような気がする」
悟は笑った。
「そっか」
「嬉しいの?」
「うん」
「なんで?」
「君が覚えてくれたから」
「ほんの少しだけだよ」
「それでもいい」
凛音は少しだけ顔を赤くした。
「……変なの」
「よく言われる」
「自覚あるんだ」
「ある」
二人は笑った。
その瞬間。
凛音は思った。
もしかすると。
99回の人生が本当にあったとしても。
今だけは普通でいたい。
何も知らない高校生でいたい。
悟と笑って。
プリンを食べて。
放課後に公園で話して。
そんな日々を過ごしたい。
それだけでいい。
「悟」
「うん」
「もしさ」
「うん」
「全部嘘だったらどうする?」
「何が?」
「輪廻も」
「うん」
「ループも」
「うん」
「私たちが何度も会ってるっていうのも」
悟は少し考えた。
「それでもいい」
「え?」
「今、君とここにいることだけは嘘じゃないから」
凛音は何も言えなくなった。
胸の奥が熱くなる。
「……ずるい」
「何が?」
「そういうこと平気で言うところ」
「平気じゃないよ」
悟の耳が少し赤くなっていた。
凛音は笑った。
「じゃあ、私も一個だけ言う」
「何?」
「今のところ」
「うん」
「悟のこと、嫌いじゃない」
悟は目を丸くした。
「今のところ?」
「そこ重要」
「厳しいな」
「100回目だからね」
「それ、俺の台詞じゃない?」
二人は笑った。
その瞬間。
公園の時計が鳴った。
午後5時。
カーン。
カーン。
カーン。
その音を聞いた瞬間。
凛音の視界が一瞬だけ暗くなった。
そして。
別の映像が重なった。
同じ公園。
同じベンチ。
しかし。
隣にいる悟は、今よりずっと大人だった。
「凛音」
「……」
「聞こえる?」
「悟?」
「そう」
「何歳?」
「分からない」
悟は泣いていた。
「もう時間がない」
「何の?」
「1分」
また。
1分。
時計。
23時59分。
そして――。
悟が凛音の胸にナイフを突き立てる。
「……っ!」
凛音は現実に戻った。
プリンが地面に落ちていた。
「凛音!」
悟が立ち上がる。
「大丈夫?」
凛音は胸を押さえた。
「……今、見た」
「何を?」
「悟が」
声が震える。
「私を……」
悟の表情が変わった。
「殺した?」
凛音はゆっくり頷いた。
「ナイフで」
悟は目を閉じた。
「そうか」
「知ってるの?」
「うん」
「その人生?」
「たぶん」
「たぶんじゃなくて教えて」
悟は黙っている。
「お願い」
凛音が言った。
「私、知りたい」
悟はしばらく凛音を見ていた。
そして。
「分かった」
初めて。
悟が、自分から話すことを選んだ。
第五章 最初の記憶
「その人生では」
悟はゆっくり話し始めた。
「君は研究者だった」
「研究者?」
「時間について研究していた」
「時間……」
「そう」
悟はベンチに座り直した。
「世界には、誰にも説明できない空白がある」
「空白?」
「記録されていない時間」
凛音は黙って聞いている。
「その研究をしていた君は、ある装置を作った」
「何の装置?」
「世界を一度だけ巻き戻す装置」
「……そんなの、あり得るの?」
「普通ならね」
「じゃあ?」
「普通じゃなかった」
悟の目が遠くなる。
「その世界では、科学が今より進んでいた」
「何年?」
「2053年」
凛音の胸がざわついた。
「……2053?」
「うん」
その数字。
昨日までただの数字だった。
でも今は違う。
未来の自分が存在するかもしれない年。
「君は世界を救おうとしていた」
「何から?」
「終わりから」
「世界の終わり?」
悟は頷く。
「そして、その方法を見つけた」
「何?」
「時間を戻す」
凛音は息を呑んだ。
「でも」
悟が続ける。
「条件があった」
「条件?」
「君が死ぬこと」
凛音の顔から血の気が引いた。
「……私が?」
「そう」
「なんで?」
「君が死ぬと、装置が停止する」
「じゃあ、死ねばいいだけじゃん」
「君はそう思わなかった」
「……」
「君は世界を救いたかった」
悟の声が少し震えた。
「でも、俺も救いたかった」
「悟を?」
「うん」
「だから?」
「君は装置を改造した」
凛音は黙っていた。
「君は、俺も生きられる世界を作ろうとした」
「……できたの?」
「できなかった」
「それで?」
「世界が壊れた」
凛音は目を伏せる。
「だから俺が君を殺した?」
「そう」
「それが99回?」
悟は首を横に振った。
「違う」
「え?」
「99回の全部が、同じ理由じゃない」
凛音は顔を上げた。
悟は言った。
「ある世界では俺が君を殺した」
「ある世界では君が自分で死んだ」
「ある世界では世界そのものが消えた」
「ある世界では、俺たちは出会わなかった」
「ある世界では――」
悟はそこで言葉を止めた。
「何?」
「君が俺を殺した」
凛音の目が見開かれる。
「私が?」
「うん」
「なんで?」
「俺が世界を終わらせようとしたから」
「……」
「だから、君が俺を殺した」
凛音は言葉を失った。
善悪が分からなくなっていく。
悟が敵なのか。
凛音が敵なのか。
どちらが世界を壊したのか。
そもそも。
世界を救うことが、本当に正しいのか。
「ねえ、悟」
「うん」
「じゃあ、私たちは」
凛音はゆっくり言った。
「何回、敵同士だったの?」
悟は答えなかった。
しばらくして。
「数えてない」
「どうして?」
「数えたら」
悟は凛音を見る。
「君を嫌いになりそうだったから」
その言葉が。
凛音の胸に刺さった。
「……嫌いになれなかったの?」
悟は笑った。
「なれなかった」
「99回も?」
「99回も」
「殺したのに?」
「殺したから」
「……意味分かんない」
「俺も分からない」
悟は空を見上げた。
夕焼けが薄くなっている。
「だから100回目で終わらせたい」
「何を?」
悟は凛音を見る。
「俺たちの人生」
「……」
「そして、世界のループも」
凛音の胸が締め付けられた。
「どうやって?」
悟は答えなかった。
ただ。
凛音の手に触れた。
初めてだった。
温かかった。
その温度だけは。
どんな前世にも。
どんな未来にも。
どんなシミュレーションにも。
関係なく。
今、この瞬間に存在していた。
「怖い?」
悟が聞く。
凛音は少し考えた。
「怖い」
「俺も」
「じゃあ」
凛音は悟の手を握り返した。
「一緒に怖がろうよ」
悟の目が揺れた。
そして。
ほんの少しだけ笑った。
「……それ、ずるい」
「何が?」
「毎回そう言うんだ」
「毎回?」
「うん」
悟は凛音の手を離さなかった。
「だから俺は、毎回君を好きになる」
夕暮れの公園。
二人の影が長く伸びていた。
その瞬間。
凛音の懐中時計が。
ポケットの中で。
小さく鳴った。
カチッ。
23時59分。
そして。
まだ誰も知らない場所で。
何かが動き始めた。
100回目の世界が。
初めて。
予定されていた軌道から外れた。