第八章 ページの向こう側
図書室は静かだった。
誰もいない。
時計の音だけが聞こえる。
カチ。
カチ。
カチ。
凛音はパソコンの画面を見つめていた。
――読者の選択を待っています。
その文字は、消えない。
電源ボタンを押しても。
マウスを動かしても。
キーボードを叩いても。
何も反応しない。
「……読者って」
凛音が呟く。
「誰?」
悟は答えない。
「ねえ、悟」
「うん」
「この世界に、私たち以外に誰かいる?」
「いるよ」
「そうじゃなくて」
凛音は画面を指差した。
「私たちを見てる人」
悟は黙った。
「さっきからずっと考えてるんだけど」
「……」
「この世界に住んでいる人は、私たちを見てる」
「うん」
「でも、それは普通だよね」
「そうだね」
「だけど」
凛音は画面を見る。
「この『読者』っていうのは違う」
悟が頷いた。
「俺たちの世界の外側にいる」
「どうしてそう思うの?」
「この世界の人間は」
悟はゆっくり言った。
「『読者』という言葉を使わない」
「……」
「少なくとも、俺が知ってる限りでは」
「でも」
凛音は首を傾けた。
「それなら、誰がこの画面を出したの?」
「分からない」
「また分からない」
「今回は本当に分からない」
悟が苦笑する。
「俺、実は何でも知ってるわけじゃないから」
「知ってるふりしてた?」
「してない」
「じゃあ、99回っていうのも?」
「……」
悟の顔から笑みが消えた。
「それは」
「うん」
「俺が覚えている数字」
「正しいとは限らない?」
「そう」
凛音は少し安心した。
「なんだ」
「何が?」
「悟でも間違えるんだ」
「そりゃ間違えるよ」
「なんか安心した」
「ひどいな」
二人は笑った。
ほんの一瞬だけ。
世界が普通に戻った気がした。
でも。
パソコンの画面には。
まだ文字がある。
――読者の選択を待っています。
「選択肢は?」
凛音が聞いた。
「ない」
「ない?」
「うん」
悟が画面を見る。
さっきまで表示されていた選択肢は消えている。
残っているのは。
ただ一行。
――次のページへ。
「……ページ?」
凛音は呟いた。
「本じゃないんだから」
そう言った瞬間。
画面に文字が浮かんだ。
――正解。
「……え?」
凛音の顔が引きつる。
悟が画面に近づいた。
新しい文字。
――あなたたちは、本ではありません。
凛音は息を止めた。
「じゃあ、何?」
画面に文字が浮かぶ。
――それを探してください。
「質問に答えてよ」
凛音が画面に向かって言う。
もちろん。
返事はない。
「ちょっと!」
凛音が机を叩いた。
悟が横で苦笑する。
「誰に怒ってるの?」
「画面」
「画面に怒っても」
「分かってる!」
凛音は頬を膨らませた。
「でも腹立つんだもん」
「……そういうところ」
「何?」
「変わらないね」
悟が笑った。
「どの世界でも」
凛音は悟を見る。
「……本当に?」
「うん」
「私、そんなに怒りっぽい?」
「そこじゃない」
「じゃあ?」
「分からない」
「またそれ!」
二人で笑う。
その瞬間。
パソコンの画面が突然真っ暗になった。
そして。
真っ黒な画面の中央に。
一文字だけ。
――恋。
凛音は瞬きをした。
「……何これ」
悟も見つめる。
やがて。
その一文字が消えた。
代わりに。
――記憶。
消える。
――時間。
消える。
――世界。
消える。
そして最後に。
――君。
凛音は胸を押さえた。
「……私?」
画面が白くなる。
そこに一行。
――あなたは、誰ですか?
凛音は答えられなかった。
その夜。
凛音は眠れなかった。
ベッドの上で。
何度も寝返りを打つ。
時計を見る。
午前1時。
午前2時。
午前3時。
時間は普通に進んでいる。
それなのに。
不安だけが消えない。
凛音は懐中時計を手に取った。
11時59分。
変わらない。
「……ねえ」
誰もいない部屋で。
凛音は時計に話しかけた。
「あなたは何なの?」
もちろん答えはない。
「私を知ってる?」
沈黙。
「悟を知ってる?」
沈黙。
「この世界を作ったのは誰?」
沈黙。
「私?」
カチ。
時計が鳴った。
凛音は固まった。
「……今」
時計を見る。
針は動いていない。
「気のせい?」
もう一度聞く。
「私が作ったの?」
カチ。
今度は。
確かに鳴った。
凛音の背中に寒気が走る。
「……嘘」
時計を床に置く。
一歩離れる。
でも。
また。
カチ。
「やめて」
カチ。
「やめてよ」
カチ。
その音に合わせるように。
頭の中に映像が浮かぶ。
白い部屋。
無数のモニター。
椅子。
机。
そして。
自分。
今より少し大人の自分。
白衣を着ている。
何かを操作している。
「……私?」
映像の中の自分が振り返る。
その顔は。
泣いていた。
そして。
誰かに言う。
「もう一回だけ」
凛音は息を止めた。
「誰に……?」
映像の中で。
もう一人の自分が答える。
「悟を救うためなら」
凛音の胸が締めつけられる。
「世界が何回壊れてもいい」
そこで映像が途切れた。
凛音はベッドの上で震えていた。
「……違う」
自分に言い聞かせる。
「私じゃない」
でも。
声は自分だった。
顔も。
自分だった。
それでも。
「私じゃない……」
そう言い続けるしかなかった。
翌朝。
凛音は悟を呼び出した。
場所は駅前の小さな公園。
朝早いから、人は少ない。
「昨日、夢を見た」
凛音が言う。
「どんな?」
「私が世界を壊してた」
悟の表情が変わった。
「……何を見た?」
「白い部屋」
「……」
「モニター」
「……」
「未来の私」
「……」
「それから」
凛音は悟を見た。
「あなたを救うためなら、世界が何回壊れてもいいって」
悟は何も言わなかった。
「本当なの?」
「分からない」
「……」
「でも」
「うん」
「俺も似た夢を見た」
凛音の目が見開かれる。
「どんな?」
「君が何かを作ってた」
「何を?」
「分からない」
「また?」
「うん」
悟は苦笑した。
「でも一つだけ覚えてる」
「何?」
「君が俺に言った」
「……」
「『忘れて』って」
凛音の胸がざわつく。
「何を?」
「全部」
「……」
「俺たちが会ったことも」
「……」
「好きになったことも」
「……」
「殺したことも」
「……」
「全部」
凛音は黙っていた。
やがて。
「悟」
「うん」
「私たちって」
「うん」
「本当に恋人だったのかな」
悟は少し考えた。
「分からない」
「またそれ?」
「でも」
悟は笑った。
「今は好きだよ」
凛音は固まった。
「……急に言う?」
「聞かれたから」
「そうだけど……」
「嫌?」
「……嫌じゃない」
「じゃあいい」
「よくない」
「どっち?」
「分からない」
今度は凛音が言った。
二人で笑った。
その笑い声が。
朝の公園に響く。
その瞬間。
凛音は思った。
もし。
この世界が偽物でも。
この笑い声まで偽物なのだろうか。
もし。
自分たちが誰かによって作られた存在でも。
今、胸が苦しいことまで。
誰かに決められているのだろうか。
「……悟」
「うん」
「一つだけ決めよう」
「何?」
「もし本当に私たちが、何度も作られてるんだとしても」
「うん」
「次は、誰かの決めた選択肢から選ばない」
悟は凛音を見る。
「自分で決める?」
「うん」
「何を?」
「何をするか」
「何を選ぶか」
「誰を好きになるか」
「……」
「誰と生きるか」
悟は黙った。
そして。
「分かった」
そう言った。
その日の放課後。
二人は学校の屋上にいた。
夕日が沈みかけている。
「ねえ」
凛音が言った。
「何?」
「昨日の少女」
「……」
「結局、誰だったの?」
「分からない」
「またそれ?」
「でも」
「うん」
「一つだけ分かった」
「何?」
「彼女は、俺たちより前の世界を知ってる」
「前?」
「うん」
「どうして?」
「君を見て、『今回も』って言った」
凛音は考え込む。
「じゃあ、あの子もループしてる?」
「分からない」
「……」
「ただ」
悟は空を見た。
「俺には一つだけ気になることがある」
「何?」
「彼女は、俺を知らないふりをしていた」
「え?」
「『久しぶり』って言ったあと」
「うん」
「俺が知らないと言ったら、すぐに引いた」
「……」
「まるで」
悟は言葉を選ぶように。
「俺が『悟』として認識されることを避けていたみたいだった」
凛音は眉をひそめた。
「どういうこと?」
「分からない」
「はいはい」
「でも」
悟は懐中時計を見た。
「もし、俺が悟じゃなかったら?」
「え?」
「もし俺が」
悟は時計の文字盤を見る。
「何度も『悟』という役割を与えられてるだけだったら?」
凛音は言葉を失った。
「役割……?」
「毎回君に会う」
「……」
「毎回君を好きになる」
「……」
「毎回君を殺す」
「……」
「それが全部」
悟は凛音を見る。
「最初から決められていたことだったら?」
凛音は首を横に振った。
「それでも」
「……」
「今のあなたが私を好きだって言ったことは、あなたが決めたんじゃないの?」
悟は答えなかった。
「私は」
凛音は続ける。
「今の私があなたを好きなら、それでいい」
「……」
「過去の私がどうだったとか」
「……」
「何回目だったとか」
「……」
「誰かが作った世界だとか」
凛音は悟の手を取った。
「今、ここにいる私たちには関係ない」
悟の指が震えた。
「……凛音」
「何?」
「そう言うと思った」
「また?」
「うん」
「毎回?」
「毎回」
「じゃあ」
凛音は笑った。
「私、毎回同じこと言ってるんだ」
「たぶん」
「じゃあ、今度は違うこと言う」
「何?」
凛音は少し考えた。
「……今日はプリン二個食べたい」
「それは違うの?」
「かなり違う」
「じゃあ買いに行こう」
二人は笑った。
屋上の扉へ向かう。
そのとき。
背後で。
何かが落ちた。
振り返る。
誰もいない。
床に。
一枚の写真が落ちていた。
「……何これ?」
凛音が拾う。
写真には。
二人の子どもが写っていた。
男の子。
女の子。
笑っている。
その顔は。
凛音と悟にそっくりだった。
「……また?」
凛音は写真を裏返す。
そこには日付が書かれていた。
――2027年9月26日。
「……9月26日?」
凛音は息を呑む。
「明日?」
悟も写真を見る。
「違う」
「え?」
「一年後」
「……」
「今は2026年」
凛音は写真を握りしめた。
「じゃあ」
「うん」
「この写真を撮った人は」
悟が答える。
「未来にいる」
凛音は写真を見つめる。
子どもの二人は。
楽しそうに笑っている。
その裏側。
小さな文字があった。
今度は。
誰かの名前ではない。
たった一行。
――101回目の君へ。
凛音は悟を見る。
「……これ」
「うん」
「私たちが撮ったのかな」
「分からない」
「じゃあ誰?」
悟は写真を見ながら。
静かに言った。
「もしかしたら」
「うん」
「未来の俺たち」
「……」
「かもしれない」
その瞬間。
凛音のスマホが鳴った。
知らない番号。
画面には。
電話番号しか表示されていない。
「出る?」
悟が聞く。
「……怖い」
「俺が出ようか?」
「ううん」
凛音は電話を取った。
「もしもし?」
しばらく。
何も聞こえない。
「もしもし?」
ノイズ。
遠くで。
誰かの呼吸。
そして。
女の声。
『凛音』
凛音の顔が凍る。
「……誰?」
『聞いて』
「あなたは誰?」
『時間がない』
「何の?」
『この世界が』
ノイズが大きくなる。
『消える前に』
凛音は悟を見る。
「あなたは誰なの?」
電話の向こうで。
女が答えた。
『あなた』
「……え?」
『私は』
声が震える。
『101回目のあなた』
その瞬間。
通話が切れた。
凛音はスマホを耳から離せなかった。
悟も。
何も言えない。
夕焼けが。
ゆっくりと暗くなっていく。
そして。
懐中時計の針が。
11時59分から。
初めて。
動いた。
カチ。
11時59分1秒。
カチ。
2秒。
カチ。
3秒。
凛音は時計を握った。
「……悟」
「うん」
「今度こそ」
「……」
「始まったのかな」
悟は答えなかった。
ただ。
空を見上げた。
そこには。
星が一つだけ。
昼間なのに。
見えていた。
そしてその星が。
まるで。
こちらを見ているように。
瞬いた。
