第十二章 好きにならないで
『お願い。次は、悟を好きにならないで』
その文字を。
凛音は何度も見た。
一度。
二度。
三度。
何度見ても。
消えない。
送信者。
天星凛音。
自分自身。
あり得ない。
そんなことは分かっている。
分かっているのに。
スマートフォンの画面に表示されている以上。
「……私が送った?」
凛音は呟いた。
「違う」
悟が答えた。
「どうして分かるの?」
「今の凛音は、そんなメッセージ送らない」
「今の私?」
「ああ」
悟は画面を見る。
「だから、今の君じゃない」
凛音は少しだけ安心した。
けれど。
その安心は。
すぐに消えた。
「じゃあ……未来の私?」
悟は答えなかった。
「それとも過去?」
「分からない」
「またそれ」
「でも」
悟は真剣な顔をしていた。
「一つだけ分かる」
「何?」
「このメッセージを書いた凛音は」
少し間を置いて。
「俺を好きだった」
凛音の胸が跳ねた。
「……どうして?」
「じゃなきゃ」
悟は画面を指差す。
「『好きにならないで』なんて言わない」
確かに。
嫌いなら。
「会うな」
「近づくな」
「忘れろ」
そう書けばいい。
なのに。
『好きにならないで』
と書いてある。
つまり。
好きになることが。
何かの原因になる。
凛音はスマートフォンを握りしめた。
「私が悟を好きになると……」
「何かが起きる」
「世界が終わる?」
「かもしれない」
「私が死ぬ?」
「かもしれない」
「悟が死ぬ?」
悟は黙った。
その沈黙だけで。
凛音には分かった。
「……それも、かもしれないんだ」
「ああ」
夜の街を。
二人は黙って歩いた。
さっきまで。
普通の放課後だった。
プリンを食べて。
図書室で話して。
帰り道を歩いて。
それだけだった。
なのに。
たった一通のメッセージで。
全部が変わってしまった。
凛音はふと思った。
「ねえ」
「ん?」
「もし」
言葉を選ぶ。
「もし私が悟を好きになることで、世界が壊れるなら」
悟は凛音を見る。
「それでも、私は好きになっていいのかな」
悟はすぐには答えなかった。
しばらく歩いて。
交差点で立ち止まる。
赤信号。
車が横切る。
その音を聞きながら。
悟が言った。
「それは」
少しだけ笑って。
「俺には決められない」
凛音は驚いた。
「悟なら、世界を選ぶと思ってた」
「前の俺ならな」
「今は?」
「今は」
悟は凛音を見る。
「凛音に決めてほしい」
「……私に?」
「ああ」
「でも、怖くない?」
「怖い」
「世界が壊れるかもしれないんだよ?」
「分かってる」
「私が間違えるかもしれない」
「うん」
「だったら――」
悟は静かに言った。
「間違えることまで、誰かに決めてもらいたくない」
凛音は何も言えなかった。
その言葉が。
胸の奥に残った。
その夜。
凛音は眠れなかった。
ベッドに横になり。
何度もスマートフォンを見る。
メッセージ。
『お願い。次は、悟を好きにならないで』
午前1時。
変化なし。
午前2時。
変化なし。
午前3時。
まだ消えない。
凛音はスマートフォンを伏せた。
目を閉じる。
眠ろうとする。
けれど。
頭の中に。
一つの疑問が浮かぶ。
――「次は」って、何?
次ということは。
今の前にも。
今の後にも。
自分がいる。
つまり。
このメッセージを書いた凛音は。
今の自分とは違う。
でも。
「自分」なのだ。
では。
何を基準にして。
同じ人間だと言えるのだろう。
顔?
記憶?
名前?
身体?
魂?
それとも。
自分自身が、
「私は私だ」
と思っていること?
「……分からない」
凛音は呟いた。
そして。
そのまま眠りに落ちた。
夢。
白い部屋。
何もない。
床も。
壁も。
天井も。
全部が白い。
凛音は一人で立っていた。
「……ここ」
見覚えがある。
何度も夢に出てきた場所。
白衣の人たち。
モニター。
世界番号。
観測。
その奥から。
誰かが歩いてくる。
女性。
長い髪。
白衣。
顔は――。
自分。
「また来たの?」
未来の凛音だった。
「あなた……」
「うん」
彼女は笑った。
でも。
今まで見た未来の自分とは違う。
疲れていた。
ひどく疲れている。
目の下には濃い影がある。
「何回目?」
凛音が聞く。
未来の自分は首を横に振った。
「もう、数えてない」
「じゃあ、100回目は?」
「100回目?」
彼女は少し笑う。
「そんな数字に意味があると思ってる?」
凛音は黙った。
「100という数字は」
未来の凛音が言う。
「ただ、人間が区切りをつけやすい数字だっただけ」
「じゃあ、本当は何回なの?」
「分からない」
また。
その答え。
「世界を作るたびに」
未来の凛音は言う。
「前の世界を『過去』と呼んだ」
「でも?」
「本当に過去なのかは、誰にも分からない」
「じゃあ、前世も?」
「そう」
「ループも?」
「そう」
「観測も?」
「そう」
未来の凛音は微笑んだ。
「全部、説明の仕方を変えただけかもしれない」
凛音は眉を寄せる。
「じゃあ、本当のことは?」
未来の自分は。
しばらく黙った。
そして。
「あなたが悟を好きになったこと」
そう言った。
「それだけは、嘘じゃない」
凛音の胸が痛くなる。
「でも、それが世界を作ったの?」
「分からない」
「また……」
「ごめんね」
未来の凛音は悲しそうに笑った。
「でも、あなたなら分かるかもしれない」
「何を?」
「私たちが何度も失敗した理由」
「失敗……」
「ずっと、世界を救おうとしてた」
「うん」
「でも」
未来の凛音は凛音の目を見る。
「世界を救うことと、世界を残すことは違う」
その瞬間。
白い部屋が揺れた。
モニターが一斉に点灯する。
99。
100。
101。
102。
103。
さらに。
104。
105。
数字が増えていく。
凛音は目を見開いた。
「待って」
数字は止まらない。
106。
107。
108。
109。
110。
「これ……」
未来の凛音が言った。
「世界は100回で終わらない」
「じゃあ、どうして100回目なの?」
未来の凛音は答えない。
代わりに。
モニターの一つに。
一人の少年が映った。
久遠悟。
けれど。
今の悟ではない。
もっと幼い。
小学生くらい。
少年は。
誰かに向かって話していた。
『好きって言ったら、世界が終わるの?』
凛音は息を止めた。
少年の前には。
一人の少女がいる。
顔は見えない。
ただ。
髪だけが見える。
その少女が答える。
『ううん』
『じゃあ、何が終わるの?』
少女は。
少しだけ笑った。
『今までの世界』
そこで。
映像が切れた。
凛音が振り返る。
「今の子は誰?」
未来の凛音は。
静かに言った。
「あなた」
「……え?」
「そして」
未来の凛音は。
「悟」
そう言った。
「二人が、最初に出会った日」
「でも、私たちは……」
「そう」
未来の凛音は頷く。
「今のあなたたちより、ずっと前」
「じゃあ」
凛音は震える声で聞いた。
「私たちの最初って……」
未来の凛音は。
答えなかった。
ただ。
一つのドアを指差した。
白いドア。
その上に。
小さな文字。
『第一世界』
凛音は近づく。
ドアノブに手をかける。
「開けていい?」
「あなたが決めて」
凛音は。
ゆっくりドアを開けた。
――。
そこには。
見慣れた教室があった。
けれど。
今とは違う。
机の配置。
制服。
黒板。
すべてが少し古い。
教室の前に。
二人の生徒が立っている。
一人は。
少女。
もう一人は。
少年。
少女が言った。
「初めまして」
少年が答える。
「……うん」
そして。
二人は笑った。
その瞬間。
凛音は分かった。
分かってしまった。
「……私たち」
少年が。
少女を見つめる。
少女が。
少年を見つめる。
二人とも。
まだ何も知らない。
世界も。
輪廻も。
時間も。
観測も。
死も。
ループも。
何も。
ただ。
少女が言う。
「名前、なんていうの?」
少年が答える。
「久遠悟」
少女が笑う。
「私は?」
少年が少し困った顔をする。
「……知らない」
少女が笑う。
「じゃあ、私が教える」
そこで。
夢が終わった。
凛音は飛び起きた。
6時11分。
また。
6時11分。
時計を見る。
あと1分。
6時12分。
心臓が速くなる。
「……第一世界」
その言葉が口から出た。
その瞬間。
スマートフォンが鳴った。
悟から。
『起きてる?』
凛音は返信する。
『起きてる』
すぐに返事。
『俺も』
続いて。
『変な夢を見た』
凛音の指が止まる。
『どんな夢?』
既読。
数秒。
そして。
『俺たちが初めて会った日の夢』
凛音の胸が高鳴る。
『どんな日だった?』
悟から返事が来る。
『俺が君に名前を聞いた』
『君は何て答えた?』
既読。
しばらく返事がない。
そして。
一文。
『天星凛音』
凛音は。
スマートフォンを握りしめた。
違う。
何かが違う。
夢の中では。
少女は。
「私が教える」
と言った。
でも。
何を教えたのか。
名前を教えたのか。
別の何かを教えたのか。
思い出せない。
そして。
もう一つ。
おかしなことがある。
凛音は悟に聞いた。
『その夢、いつのこと?』
返事。
『分からない』
凛音は笑ってしまった。
「また、それか」
そして。
その直後。
もう一件。
メッセージが届いた。
悟からではない。
差出人。
『天星凛音』
内容。
『思い出さないで』
凛音の笑顔が消える。
続けて。
二通目。
『第一世界では、悟があなたを好きになった』
三通目。
『第二世界では、あなたが悟を好きになった』
四通目。
『だから、第三世界から壊れ始めた』
凛音の手が震える。
五通目。
『そして今』
最後の一文。
『あなたたちは、どちらから好きになった?』
凛音は。
画面を見つめた。
答えられない。
自分が先だったのか。
悟が先だったのか。
そもそも。
「好きになる」という感情に。
最初なんてあるのか。
そのとき。
スマートフォンが震えた。
悟から。
『凛音』
『今日、話したいことがある』
そして。
最後に。
『俺、昨日から思い出し始めてる』
凛音は息を止めた。
『何を?』
既読。
返事。
『君を好きになった、最初の日を』
凛音は。
画面を見つめたまま。
動けなくなった。
そして。
時計が。
6時12分を指した。
カチッ。
その瞬間。
世界のどこかで。
また。
ページをめくる音がした。
ぱらり。
今度は。
一ページ目ではなかった。
二ページ目でも。
三ページ目でもない。
ずっと先。
まだ誰も読んでいないページが。
一枚だけ。
めくられた。
