第六章 予定されていた未来
翌朝。
目覚まし時計が鳴るより先に、凛音は目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光が、やけに眩しい。
スマホを見る。
午前6時12分。
「……朝か」
昨日と同じ時間だった。
凛音は布団の中でしばらく固まっていた。
昨日までなら、ただの偶然だと思っただろう。
でも今は違う。
99回。
100回。
世界のループ。
そして――
予定されていた軌道から外れた。
「……何が?」
凛音は呟いた。
もちろん、答えてくれる人はいない。
枕元に置いた懐中時計を手に取る。
昨日までは、何度見ても針は23時59分だった。
ところが。
今日は違った。
秒針が動いている。
「え……」
カチ。
カチ。
カチ。
小さな音を立てながら、秒針が進んでいく。
凛音は思わず時計を耳に近づけた。
心臓の音と、時計の音。
どちらが速いのか分からない。
「動いてる……」
次の瞬間。
時計が止まった。
23時59分59秒。
あと1秒。
凛音は息を止めた。
そして――
カチ。
12時。
「……」
何も起こらなかった。
世界が崩れることもない。
部屋が消えることもない。
誰かが現れることもない。
ただ、朝の静けさだけがそこにあった。
「……なんなのよ」
凛音は時計を見つめた。
少しだけ腹が立った。
さんざん意味深なことをしておいて、何も起きない。
こういうのが一番困る。
「こっちは寝不足なんですけど」
誰もいない部屋で文句を言う。
すると。
机の上に置いてあったスマホが鳴った。
メッセージ。
送り主は――久遠悟。
『おはよう』
凛音は眉をひそめた。
続けてメッセージが届く。
『時計、動いた?』
「……」
凛音はスマホを握り直した。
『なんで知ってるの?』
すぐに既読がついた。
しかし、返信は来ない。
1分。
2分。
3分。
待っていると、ようやく画面に文字が表示された。
『昨日までと違うから』
凛音は画面を見つめた。
『何が?』
今度は、なかなか返信が来なかった。
そして数分後。
『朝』
たった二文字。
「朝?」
意味が分からない。
凛音はさらに打ち込んだ。
『どういう意味?』
既読。
返信なし。
「……もう!」
凛音はスマホをベッドに投げた。
その直後。
再び通知音が鳴る。
『学校で話す』
凛音はため息をついた。
「最初からそう言えばいいじゃん……」
教室に入ると、悟はすでに席に座っていた。
いつも通り。
窓の外を眺めながら、何かを考えている。
凛音が近づくと、悟はこちらを見た。
「おはよう」
「おはよう」
「眠そう」
「誰のせいだと思ってるの?」
「俺?」
「あなた以外に誰がいるのよ」
悟は少し笑った。
「じゃあ、責任取らないと」
「どうやって?」
「プリン」
「……安い責任だなあ」
「でも凛音、プリン好きでしょ」
「なんで知ってるの」
「100回目だから」
「それ、万能ワードにするのやめて」
凛音が睨むと、悟は笑った。
その笑顔は、昨日までと何も変わらない。
けれど。
凛音には分かった。
悟も何かに怯えている。
いつもの余裕が、ほんの少しだけ薄い。
「悟」
「ん?」
「朝、時計が動いた」
「……うん」
「12時になった」
「うん」
「何も起きなかった」
「そうだね」
「何が違うの?」
悟はしばらく黙った。
そして窓の外を見る。
「昨日の朝、雨だった」
「え?」
「本当はね」
凛音も窓の外を見る。
今日は快晴だった。
雲ひとつない。
「昨日?」
「99回目まで」
「……」
「100回目の朝は、必ず雨だった」
凛音は背筋が寒くなった。
「必ず?」
「俺が覚えている限りは」
「でも昨日は晴れてたよ」
「だから言ったんだ」
悟は凛音を見る。
「昨日から、予定が変わった」
教室のざわめきが遠くなる。
「何が予定されてたの?」
「分からない」
「分からないの?」
「俺は未来を全部知ってるわけじゃない」
悟は苦笑した。
「ただ、同じことが何度も起きていたから……起きることを予測できただけ」
「じゃあ、昨日までの100回目は?」
「昨日まで?」
「うん」
悟の表情が変わった。
ほんの一瞬。
怯えたように見えた。
「……昨日までの100回目なんて、ないよ」
「え?」
「100回目は、今だ」
「でもあなた、昨日……」
「そう」
悟は小さく息を吐いた。
「だから怖いんだ」
昼休み。
凛音と悟は屋上にいた。
風が強い。
フェンスが微かに揺れている。
「怖いって、どういう意味?」
凛音が聞いた。
悟は弁当を開きながら答える。
「簡単な話」
「うん」
「俺が知っている100回目と、今の100回目が違う」
「……」
「今までなら、今日の昼に先生が階段で転ぶ」
「え?」
「午後2時17分に、学校の放送が一度だけ途切れる」
「そんなことまで?」
「3時40分に、雨が降る」
「今日は晴れてるよ」
「そう」
悟は空を見上げた。
「それから夕方、君がいなくなる」
凛音の箸が止まった。
「……私が?」
「うん」
「どこに?」
「分からない」
「どうして?」
「俺が探しても見つからない」
「……」
「そして夜」
悟の声が低くなる。
「君は戻ってくる」
「戻ってくる?」
「でも――」
悟は言葉を止めた。
「でも?」
「君じゃない」
風が吹いた。
凛音の髪が舞う。
「どういう意味?」
「分からない」
「またそれ?」
「本当に分からないんだ」
悟は苦しそうに笑った。
「毎回、君が戻ってくる。でも俺には、それが君なのか分からない」
凛音はしばらく黙っていた。
やがて。
「じゃあ、今の私は?」
悟を見る。
「今の私は、本物?」
「……」
悟は答えなかった。
凛音は笑った。
「答えられないんだ」
「違う」
「じゃあ答えて」
「……」
「悟」
悟は目を伏せた。
「分からない」
凛音は胸の奥が痛くなるのを感じた。
でも。
なぜか怒れなかった。
悟が嘘をついているようには見えなかったからだ。
「じゃあ、私はどうすればいいの?」
「普通にしてて」
「普通って?」
「笑って、怒って、学校行って、帰って」
「プリン食べて?」
「そう」
「……それでいいの?」
「今まで、それができなかったから」
悟は少し笑った。
「だから今度は、やってみたい」
「……何を?」
「普通の人生」
その言葉が、妙に胸に残った。
午後。
悟の予言は、次々と外れた。
先生は階段で転ばなかった。
放送も途切れなかった。
午後2時17分。
何も起こらなかった。
「……すごい」
凛音は時計を見ながら呟いた。
「全部外れた」
悟は黙っていた。
「ねえ」
「うん」
「もしかして」
凛音は少し笑った。
「私たち、ループから抜けたんじゃない?」
悟は答えなかった。
「だって、今までと違うんでしょ?」
「……そうだね」
「だったら――」
「でも」
悟が遮った。
「一つだけ」
「何?」
「まだ起きてないことがある」
「……何?」
悟は凛音を見た。
「夕方」
その言葉を聞いた瞬間。
校内放送が流れた。
『生徒の皆さんに連絡します』
二人が同時に顔を上げる。
『本日、午後4時より――』
放送が途切れた。
凛音と悟は顔を見合わせる。
「……嘘」
凛音が呟いた。
時計を見る。
午後3時59分。
あと1分。
悟は立ち上がった。
「行こう」
「どこへ?」
「屋上」
「なんで?」
「前は、ここで君が消えたから」
凛音は悟の腕を掴んだ。
「待って」
「何?」
「今回は違うかもしれない」
「うん」
「だったら、私たちが同じことをする必要ないんじゃない?」
悟が止まる。
凛音は続けた。
「今までずっと、同じことを繰り返してきたんでしょ?」
「……うん」
「だったら」
凛音は笑った。
「今回は、違うことをしようよ」
悟は何も言わなかった。
ただ、凛音の顔を見つめていた。
「何?」
「……いや」
「?」
「それも」
「何?」
「昔の君が言ってた」
凛音の笑顔が消える。
「……昔の私が?」
「うん」
悟は目を細めた。
「97回目だったかな」
「なんて言ったの?」
「同じことをしても同じ結果になるなら」
悟は静かに言った。
「次は、違うことをしようって」
「……それで?」
「失敗した」
凛音は黙った。
「何があったの?」
「君が死んだ」
「……」
「だから俺は、次の世界で同じことをさせないようにした」
「どうやって?」
「君を先に殺した」
胸が締めつけられる。
それでも凛音は目を逸らさなかった。
「……最低」
「うん」
「本当に最低」
「知ってる」
「でも」
凛音は小さく息を吐いた。
「今は殺さないんだよね?」
悟は一瞬だけ目を見開いた。
「……うん」
「じゃあ、行こう」
「どこへ?」
「屋上じゃない」
凛音は悟の手を引いた。
「帰るの」
「え?」
「普通の人生をやるんでしょ?」
悟は呆然とした。
「学校が終わったら家に帰る」
「……」
「途中でコンビニに寄って」
「うん」
「プリン買って」
「うん」
「一緒に食べる」
悟は笑った。
「それ、普通なの?」
「私にとってはね」
校内放送が完全に沈黙した。
午後4時。
何も起こらなかった。
少なくとも。
学校では。
夕方。
二人は並んで歩いていた。
いつもと同じ帰り道。
信号。
公園。
コンビニ。
住宅街。
何も変わらない。
凛音はプリンを二つ買った。
「はい」
「ありがとう」
「今日は私のおごり」
「珍しい」
「100回目記念」
「……その言い方、なんか怖い」
二人で笑った。
そのとき。
凛音は公園の前で足を止めた。
「……ねえ」
「どうした?」
「あれ」
公園のベンチ。
そこに、一人の少女が座っていた。
制服姿。
長い髪。
こちらを見ている。
凛音は眉をひそめた。
「誰?」
少女は立ち上がった。
そして。
こちらに向かって歩いてくる。
近づくにつれて、凛音は違和感を覚えた。
見覚えがある。
どこかで見た。
夢?
写真?
それとも――
「凛音」
悟が低い声で言った。
「知ってるの?」
「……知らない」
「嘘」
「本当に知らない」
少女が二人の前で立ち止まった。
そして凛音を見た。
「やっと見つけた」
「……え?」
少女は笑った。
「今度は、こっちなんだね」
悟の顔から血の気が引いた。
「お前……」
少女は悟を見る。
「久しぶり」
「……誰だ」
「忘れた?」
「知らない」
「そっか」
少女は少し寂しそうに笑った。
「じゃあ、まだ早いんだ」
「何が?」
凛音が聞く。
少女は凛音の手にあるプリンを見る。
「それ」
「え?」
「今回もプリンなんだ」
「……」
「前もそうだったよ」
凛音は息を呑んだ。
「あなた……私たちを知ってるの?」
少女は答えなかった。
代わりに、凛音の持っている懐中時計を見た。
「まだ、それ持ってるんだ」
凛音の指が震えた。
「これを知ってるの?」
「知ってるよ」
「どこで?」
「最初に見つけたのは――」
少女はそこで言葉を止めた。
「……私じゃない」
「じゃあ誰?」
少女は凛音を見つめる。
「あなた」
「私?」
「最初のあなた」
その瞬間。
凛音の頭の中で、何かが弾けた。
白い部屋。
巨大なガラス。
無数のモニター。
机の上に置かれた同じ懐中時計。
そして。
画面に映る数字。
――99。
その隣に。
――100。
そして。
――101。
「……っ」
凛音は頭を押さえた。
「凛音!」
悟が支える。
少女は一歩下がった。
「まだ思い出しちゃ駄目」
「……何を?」
「全部」
少女の表情から笑みが消えた。
「全部思い出したら、また同じことになる」
「どういうこと?」
「あなたは、また選ぶから」
「何を?」
少女は答えた。
「世界を残すか」
そして悟を見る。
「この人を残すか」
凛音の心臓が大きく跳ねた。
「……それ、どういう意味?」
少女は少しだけ笑った。
「まだ知らなくていいよ」
「待って!」
少女が背を向ける。
凛音が追いかけようとした瞬間。
「凛音!」
悟が叫んだ。
その声に、凛音は振り返った。
「何?」
悟は何かを言おうとしていた。
しかし。
言えなかった。
代わりに。
懐中時計を見た。
秒針が動いている。
11時59分。
また、そこに戻っていた。
「……おかしい」
「何が?」
「今、何時?」
凛音はスマホを見る。
「午後5時23分」
「時計は?」
「11時59分」
悟は青ざめた。
「……そういうことか」
「何が?」
悟は凛音を見た。
「時間が戻ったんじゃない」
「え?」
「時計だけが」
悟は震える声で言った。
「まだ、11時59分なんだ」
風が止まった。
遠くで車の音がする。
子どもの笑い声。
犬の鳴き声。
夕方の町は、何も変わっていない。
なのに。
凛音には。
世界全体が、一瞬だけ息を止めたように感じられた。
悟が呟く。
「……100回目の世界は」
「うん」
「時間の外に出たのかもしれない」
「時間の……外?」
「分からない」
また、その言葉。
けれど今度は。
凛音も同じことを思った。
分からない。
だからこそ。
知りたい。
凛音は懐中時計を握りしめた。
裏面には、あの文字。
――100回目の君へ。
その下に。
今まで気づかなかった小さな傷がある。
傷ではない。
文字だった。
目を凝らす。
そこには。
小さく。
こう刻まれていた。
――観測終了後、次の世界へ。
凛音は息を止めた。
「悟」
「……うん」
「これ」
悟は文字を見た。
そして。
初めて。
凛音の知らない顔をした。
「……俺も」
「え?」
「それを見たのは」
悟はゆっくりと言った。
「初めてだ」
その瞬間。
公園の時計が鳴った。
5時30分なのに、、
1回。
2回。
3回。
そして――
4回目の鐘が鳴る前に。
世界が、一瞬だけ暗転した。
目を開ける。
凛音は立っていた。
場所は学校。
教室。
窓の外は朝。
「……え?」
時計を見る。
午前6時12分。
スマホを見る。
日付。
9月26日。
「……戻った?」
凛音は立ち上がった。
しかし。
何かがおかしい。
昨日と同じ朝。
なのに。
昨日とは違う。
机の上に、一枚の紙が置かれていた。
誰のものか分からない。
白い紙。
そこに、たった一行だけ書かれている。
――これは、あなたが読んでいる世界です。
凛音は紙を落とした。
「……誰?」
教室には誰もいない。
それでも。
背後から声がした。
「凛音」
振り返る。
誰もいない。
「……悟?」
返事はない。
ただ。
教室の隅にある黒板に。
昨日までなかった文字が書かれていた。
――100回目は、まだ始まっていない。
凛音は息を呑んだ。
その瞬間。
廊下から。
聞き慣れた声がした。
「……やっと会えた」
凛音はゆっくりと振り返る。
教室の扉が開く。
そこに立っていたのは――
久遠悟だった。
ただし。
凛音の知っている悟ではなかった。
制服が違う。
髪型も違う。
そして。
その悟は。
凛音を見るなり、こう言った。
「……初めまして」
凛音の手から。
懐中時計が落ちた。
カチン。
床に転がる。
針は。
11時59分を指していた。
